CASABELLA JAPAN リポート

『CASABELLA JAPAN』創刊10周年・特別記念講演会:私の歩んだ道

グレン・マーカット
安藤忠雄
フランチェスコ・ダルコ

文:小巻哲

『CASABELLA JAPAN』の創刊10周年を記念した講演会が、2017年5月18日にイタリア文化会館にて開催された。「私の歩んだ道」というメイン・テーマが掲げられ、安藤忠雄、グレン・マーカット、フランチェスコ・ダルコの3氏によるユーモラスでありつつも含蓄に富んだ講演が繰り広げられていった。その模様を以下にリポートしたい。
イタリア文化会館・館長代理のノルベルト・ステインマイヤー氏、在日イタリア大使館・駐日イタリア大使のジョルジョ・スタラーチェ氏、アーキテクツ・スタジオ・ジャパン(株)代表取締役社長の丸山雄平氏による挨拶に引き続き、安藤忠雄氏が登壇した。
 

講演会のフライヤー

満員の講演会場

イタリア大使館・駐日イタリア大使、ジョルジョ・スタラーチェ氏

よく知られていることだが、安藤氏は独学で自らの建築の道を切り開いてきた。特に事務所を開設する前に何度か敢行したグランドツアー─なかでも凄まじいのは、シベリア鉄道でモスクワに入って北欧から南欧を駆け巡り、貨客船でアフリカ・東南アジアを経由して帰国─が、自らの原点にあると語っている。その旅先でパンテオンやロンシャン[の礼拝堂]を見て感動し、「建築とは、自分のなかに住み続けて残っていく場所を作ることだ」と思ったという。こうして得た体験や知識のみを資本にして、1969年に安藤忠雄建築研究所が開設される。
ここから講演は、実際のプロジェクトを例証しつつ展開された。
「住吉の長屋」(1975-76)。私が言うまでもなく、木造の3軒長屋の真ん中を切り取って、コンクリートの箱に置き換えた作品である。両隣が倒れかかってくる懸念を持ちつつも、「勇気を持って、想像力ある建築を作ろうと思った」と語る。1975年当時でも総工費1000万円という予算は厳しい。そこで冷房も暖房もナシ。中庭からの光と風だけを頼りに、あとは自分の体力しだい。寒ければ重ね着すればよい。さらにもう1枚。それでも寒ければ、……「諦めろ」。今ではエコハウスと称されたりもする究極の〈自然とともに生きる家〉は、やはり当時は賛否が分かれた。私は1985年ころに編集者として訪れたのだが、確かにコンクリートと空しか見えない住宅だった。曇りだったので仄暗かったものの、そのシンプルな空間は心地よく、豊かささえ感じられたことを、身体感覚として思い出せる。
光も強いテーマとして安藤建築に継続される。まさに「光の教会」(1987-89)。あまりに有名な光の十字架だがそこにはガラスを嵌めたくなかったと安藤氏は述懐する。「寒いとか猫が入ってくるとか言うんですね」。しかしついに、この秋に新国立美術館で開催される展覧会では「光の教会」が原寸大で実現する。そこではガラスは嵌められないという。楽しみにしたい。

安藤忠雄氏

話はイタリア・トレヴィーゾの「FABRICA」(1992-2000)に移る。セビリア万博の日本館に興味を持ったルチアーノ・ベネトン氏から、ベネトン社のアートスクール「FABRICA」の設計を依頼される。これは17世紀の古い邸館の改修である。海外の仕事は新築でさえ難しいと言われているのに、さらに難しそうな改修/改築工事に挑むことになった。そこで安藤氏は歴史家や構造・設備の技術者を集めたチームを結成し、ベネトンの仕事に立ち向かった。着工から竣工まで時間は掛かったものの、高いクオリティの建物として完成させたチームを安藤氏は誇る。「建築に対して心の底から愛情を持った人たち」。そして実際に工事に携わる職人たちに対しても、「楽しそうに仕事をして、仕事が終わるとワインを飲んでニコニコして帰る。楽しく作らないと楽しそうな建築はできないと思いました。約束の時間には遅れてきますけどね(笑)」。このチームとの協働は、その後も続けられていく。
『CASABELLA』誌(778号、831号)でも紹介したヴェネツィアの「プンタ・デッラ・ドガーナ再生計画」(2006-09)と「パラッツォ・グラッシ再生計画/テアトリーノ」(2005-13)もまた、いずれも歴史的建造物との格闘である。これらに対し安藤氏は、修復できる部分は徹底的に残しつつ、新しいアイデアが込められた建築として実現させた。「古いものと新しいものが、互いに妥協することなくぶつかりあいながら出来るものがいい」と語る。安藤氏は2つの古い建物に新しくコンクリート─プンタ・デッラ・ドガーナでは立方体、テアトリーノでは傾斜した曲壁─を挿入した。こうしたコンセプトに先立つのが中之島プロジェクト(1980-)─特に「アーバンエッグ」(1988-)は、老朽化した公会堂に卵形のシェルを挿入するという型破りな提案─だったことが語られた。その基本的なアイデアは、遠くヴェネツィアで実現を見たということになろう。

ステージより会場見る

講演の後半は、建築と現代アートの交歓について話が継がれた。直島をアートの島にしようというベネッセの 福武氏と安藤氏の試みは1988年に始まり、国内外を問わず年間通算で数十万人が来島するまでになった。新しい建物を建設するだけではなく、ここでも古い建物が尊重されている。さらに印象深かったのは、赤茶けた荒廃地に植えた苗木が年月とともに育ち、建物群が緑に包み込まれている現在の風景だった。「最初は10cmとか20cmくらいだったんですよ」。リチャード・ロングや草間彌生といった現代アーティストとの邂逅もユーモアたっぷりに語られた。「日本人の多くは、芸術は分からないと言うんです。そうじゃなくて、芸術は体験すればいいんですよ。建築も同じで、体験して面白いというものではないかと思うんですね」。次に「アーティストと対話しながら新しい世界をつくる」仕事として、フランスのプロヴァンス地方で今も進行中の「シャトー・ラ・コスト」(2006-)が紹介された。これもまたアートの「島」と言えよう。広大な葡萄畑に、ワイナリー、ギャラリー、現代彫刻、パヴィリオンなどが点在しつつ結ばれる壮大な野外美術館である。安藤氏はマス タープランとアートセンターなどを手掛けている。ここに集結した建築家は、ジャン・ヌーヴェル、レンゾ・ピアノ、ノーマン・フォスター、フランク・ゲーリーなど。そこにルイーズ・ブルジョワ、リチャード・セラ、アレクサンダー・カルダーなどの彫刻作品が煌めくように配されている(『CASABELLA』808号[2012]のダルコ氏による論考を参照されたい)。
進行中のプロジェクトも紹介された。ヴェネツィアのパラッツォ・グラッシ再生計画/テアトリーノやプンタ・デッラ・ドガーナ再生計画の大立者であるフランスの実業家フランソワ・ピノー氏からの依頼による現代美術館だ。場所はパリ市街。1889年にアンリ・ブロンデルが建てた商品取引所を美術館に仕立て直すものだ。かつてピノー氏はセーヌ川に浮かぶスガン島に自らのコレクションを展示する「ピノー現代美術館」を計画し、国際コンペを開催した。その勝者が安藤氏だった。この計画は中止となったが、ピノー氏と安藤氏の関係はヴェネツィアに持ち越されたのだ。今回はリターンマッチ─両者にとって─ということだろうか。「人々が体験したことのない空間を創りたい」と、円形平面にガラスの丸屋根が架かった建物内部にはコンクリートの箱や二重螺旋が組み込まれていくようだ。こうした難しい仕事への対峙について安藤氏は語る。「エッフェル塔やサグラダ・ファミリアからは挑戦しているという勇気が伝わってきます。そういう建物を造ってほしいというピノーさんの思いを、私たちは形にするのです。真の精神があれば、新しい時代の人たちは受け入れてくれると考えています」。
最後に今秋から始まる展覧会に触れつつ、建築/建築家の役割について述べられた。「エネルギーや想像力をなくしたら、私たちの役割はどこにあるのだろうか。周辺の建物を見ても、非常に合理的・機能的で美しくはあるけれども、感動が薄いような建物が多い。私は人々が建築を体験することの面白さを見せたいのです」。

引き続き登壇したグレン・マーカット氏は、その生い立ちから講演を開始した。本人が「公の場で話したことはない」と言うように、おそらくは初めて聞くだろうマーカット氏の「歩んできた道」に観衆は引き込まれていった。その概要を以下に紹介する。

マーカット氏は5人兄弟の長男として1936年にロンドンで生まれた。1899年に生まれた父親は、ほとんど教育を受けずに11歳で家を出たという。まずはシドニーから350キロくらい北西にあるバークまで行き、羊毛を刈る仕事─もちろん最初は使い走り─に就いた。16歳を過ぎたころシドニーに戻り、ボクサーになろうとトレーニングを受けた。サウスポーとしてなかなかの成績を上げたらしい。19歳になったばかりの1918年、第一次世界大戦の末期に志願兵に応募するものの、不合格。そこでオーストラリアを離れて、パプアニューギニアに向かう。そこではブーツをつくる職人として技術を身につけ、かなりの腕前だったとマーカット氏は述懐する。その後には、大工仕事も手掛けるようになったらしい。ここでタスマニア出身のハリウッド・スターだったエロール・フリンの話が加わる。当時のフリンはパプアニューギニアに住んでおり、金は出すからヨットを一緒に作らないか、アメリカに行って、ハリウッドで暮らそうと父親を誘った。ヨットは完成したのだが、借金苦だったフリンはそのまま何処へかに消えてしまった。失意の父親は、内陸部のハイランド地方に行くことにした。そこではクリンキーパイン(ナンヨウスギ科の針葉樹で家具や内装材になる)という素晴らしい木材に目をつけた。1本のクリンキーパインを切り倒すごとに、2本分の苗木を植えた。マーカット氏が30年以上前に同じ場所を訪れてみると、見事な森林が広がっていたという。ここで仰天のエピソード。そのパプアニューギニアでマーカット家が住んでいたあたりは、クカクカ族が居住する大変に危険な地域だったのだ。クカクカ族とは、パプアニューギニアの高地に住む焼畑農耕民である。身長は150cmくらいと小さいのだが、きわめて戦闘的。頻繁に高地から降りては平野部の住民を襲っていた。食人の習慣もあったとされる。
マーカット氏の両親、特に父親は旅が大好きだったようだ。1933年(昭和8年)には、東京に1年近く滞在していたという。家には、日本で買った茶器のセットがあったらしい。「1936年のベルリン・オリンピックに向かう旅の途中だったロンドンで、私は生まれました」。帰りは、ニューヨークから伝説のルート66を経由してロサンゼルスまで行く。そこからオーストラリアに戻り、ニューギニアに帰って行った。とんでもない大旅行が語られた。
そうした幼少期の生活をマーカット氏は、「生まれてから6年間を過ごしたパプアニューギニアでの生活は、かけがえのない貴重で素晴らしい体験」だったと回顧する。特に少年に影響を与えたのは、クカクカ族の存在という恐怖とサバイバル意識。そして自給自足に近い生活の中で、周囲の美しい大自然を観察すること。意外なことに、島の主要な輸送手段である飛行機という人工物への興味も強かったようだ。

グレン・マーカット氏

太平洋戦争の勃発を受け、1942年─マーカット氏、6歳─に一家はオーストラリアに戻ることになる。大きな 建物がある、自動車が走る、多くの飛行機が空を行き交う。少年にとっては、さぞかし大きな環境の変化だったことは想像に難くない。父親はシドニーで不動産(土地)投資をしていた。また以前から建築に関心を持っていたことから、『Architectural Forum』や『Architectural Record』といった海外の建築雑誌を購読していた。実際に建物を設計していたという。父親が持ち帰った余りの建築資材を使って、マーカット氏は建物らしきものを組み立てていたらしい。それを見て、「息子は建築家になりたいんじゃないかなと、父は思い始めた。私が10歳くらいのことです」。その頃に完成したフィリップ・ジョンソンの「ガラスの家」(1949)やミース・ファン・デル・ローエの「ファーンズワース邸」(1950)のことも、少年は前述した建築雑誌を読んで知っていた。「私は建築家になるように育てられたんです」とマーカット氏は述べている。
1955年にニューサウスウェールズ大学に入るのだが、同時期に兵役も務めている。空軍(飛行機が好き)に残るか大学(建築も好き)に戻るか。今では明らかなように、彼は建築を選んだ。この大学では、「自然を学ぶこと」に重点が置かれていた。建築と自然の関係、構造と自然の関係、そして環境について。これらが後々のマーカット建築に大きな影響を与えたことが推察される。講演では特に、睡蓮のように開いたピエル・ルイジ・ネルヴィの美しい構造体と植物との連関について熱弁が振るわれた。
大学卒業後、学生仲間と連れだって建築研究旅行に出発する。ギリシアのミコノス島では、ある修道院の美し さに驚嘆する。「最小のマテリアルで、こんなにも多くの豊かな表現が可能なのか。多くを使うよりも、むしろ削ぎ落とすことのほうが、大きな広がりや可能性を与えてくれる」。ピエール・シャローによるパリの「メゾン・ド・ヴェール」(ガラスの家)では、鉄とガラスのマテリアリティの凄さを見る。そしてアアルトにおける銅板と白色。ルイス・バラガンの極彩色。色を通しての統一感(unity through colours)。ここで マーカット氏は「シンプルであること」の重要性を説く。「ただ単純なのではなく、美に関わることであり、ものごとの本質そのものなのです。それを最少限の存在において示していくことです」。そして10代前半に雑誌で知ったミース・ファン・デル・ローエが登場する。「ミースは私にとって、ある意味で、良心(conscience)に相当します」。

マーカット氏の講演の様子

講演は教鞭を執ることの重要性へと移る。「教えることによって、建築家はレベルアップすると私は思います。作品の講評をするときに、学生にアドバイスを出しますね。チェックした理由や理解の方法を自分の言葉で出すことは、自分自身への教育にもなる」。マーカット氏は1970年から建築教育に携わってきた。今は退いているが、国内ばかりではなく、ペンシルヴァニア大学、ヘルシンキ工科大学、UCLA、テキサス大学、イェール大学……。「それは私自身にとっても学びにもなりました。私の発した言葉が、どのように若い人たちに対して働きかけるかを見ることができました。ただし、今は教えるのが少し難しくなってきました。コンピューターが作業的に影響を与えましたし、考え方自体もコンピューターに影響を受けたりしています。素晴らしいツールではあるのですが、やはり手を使って考えるということは大事だと思っています。若い建築家─若くなくても─は、ともかくフィンランドの建築思想家ユハニ・パラスマーの『Thinking Hand』を読んで、なぜ手と目の繋がりが建築空間を考えるうえで重要なのかを理解してほしい」。その身体感覚の重要性を、オーストラリアの 先住民アボリジニを引いて説明を加える。「アボリジニたちは場所をつくることについて理解しています。例えばモンスーン気候の地域では、冬には冬の風向きがあります。そこで火を焚くと煙は風下に流れます。その風向きに合わせて、日射や雨露を防ぐプラットフォームを作ります。非常シンプルで分かりやすい。またアボリジニの人々にとっては、外を見ることが必要です。つまり誰が来ているのか、誰が出ていくのかを見ていたいんですね。特に、動物がいる世界ではそうなんです。どのような動物が通ったのか、それは食糧として獲ることができるのか。常に外を見ているということが重要になります。つまり場所によって全く違う建築があるということです。東京とシドニーでは違って当然なんです。文化や背景が違いますから」。
ここまで述べてきた基本的スタンスを実証するような作品群が次々と紹介された。初期の作品から最新作、そして進行中のプロジェクトまでが足早に語られていった。最後に新しいモスクのプロジェクトに話が及んだ。以下の発言をもって講演は閉じられた。「皆さんに申し上げたいのは、私は80歳を超えて、ようやく規模の大きいプロジェクトを手掛けることができました。父から言われたことを思い出します。『成功するには、急いではいけない。仔山羊の手袋で扱うように慎重にな』。それが父の言葉です。もうひとつ言っていたのは、『実践するときには、完成する時のことを考えてスタートしろ』。つまり、意図して妥協することになる場合は常に、傲慢さからではなく、もっとよくするべく行動しなさい。そう父から言われたことを思い出します」。

安藤忠雄氏は世界各国で作品を手掛け、グレン・マーカット氏はオーストラリアのみを設計活動の場─とはいえ、熱帯、亜熱帯、温帯などの気候条件、森林地帯、海浜地帯、乾燥地帯にいたる地理的条件はバラエティに富む─としている。活動範囲は対照的だが、2人には大きな共通点があることを、今回あらためて確認できた。彼らはコンピューターが現在の設計に不可欠であることを認めつつも、今なお「手」を動かし続けているのだ。その痕跡は建物に転写され、多くの人たちに感動を与えていることが実感された。  フランチェスコ・ダルコ氏は、この講演会では『CASABELLA』編集長としてMCの役割を務めた。氏の締めくくりのコメントを、以下に紹介したい。

フランチェスコ・ダルコ氏

フランチェスコ・ダルコ:『CASABELLA JAPAN』は日本において創刊10周年を迎えました。その本誌である『CASABELLA』は、来年に創刊90周年を迎えることになります。『CASABELLA』は1928年から定期的に発行されてきました。刊行が途切れたこともありました。1943年から46年にかけて、当時のファシスト政権によって発行が停止されたケースです。
創刊以来、私たちは世界中の建築家の仕事を誌上で紹介してまいりました。もし私たちが今後も仕事を続けることができるとすれば、それは何よりも多くの建築家たちのおかげです。さらにまた、私たちが真摯に仕事をすることにより読者の皆様と培ってきた信頼関係によるものだと思います。これらの基礎となるのは、尊敬/リスペクトの気持ちだと思います。建築家の方々の仕事に対するリスペクト、そして私たちの雑誌を読んで下さる読者の方々に対するリスペクトです。尊敬の念を払うということは、イタリア語のなかでも最も美しい動詞のひとつだと思っています。“Rispettare”[リスペッターレ]という言葉です。このリスペクトの上に自分たちの仕事を築き上げていくということこそが、今の時代に生きる私たちが今後も追求していかなければいけないミッションなのではないかと思っています。私たちが目的とする人やものに対する尊敬の気持ちも、考えているだけではいけません。しかし固く考えることもありません。リスペクトするということは、楽しいということなんです。
私は自分たちが行っている仕事は、とても素晴らしい仕事だと考えています。本日は皆様にも、私たちの仕事の一端をご覧いただけたかと思います。今宵は私の友人でもあるグレン・マーカットさんと安藤忠雄さんの講演を聴いていただきました。お2人は話の内容も話し方もまったく異なるものでしたが、とても素晴らしかったと思います。お2人に限らず、どのような建築家に対しても尊敬の念を持ち、喜びをもって付き合うことがどんなに楽しいか、皆様に伝えられたのではないかと思います。このように私は非常に楽しく仕事をしています。楽しいだけでなく、多くのことを学ぶことができます。これからも長く、この仕事を続けていきたいと心から願っているのです。10年後も同じこの場所で皆様に会いたいと思っています。その時は、『CASABELLA JAPAN』20周年記念になりますね。そのように日本においても世界においても、1世紀近い歴史を持つ『CASABELLA』誌を盛り上げていきたいと思っております。本日は、ありがとうございました。

講演後の懇親会

[グレン・マーカット]

建築家。1936年ロンドン生まれ。1961年シドニー・テクニカル・カレッジ (現ニューサウスウェールズ大学)にて建築学の学位取得。1969年事務所 開設。2002年プリツカー賞、2009年AIAゴールドメダルなど受賞多数。
 

[安藤忠雄]

建築家、東京大学名誉教授。1941年大阪生まれ。独学で建築を 学ぶ。1969年安藤忠雄建築研究所設立。1979年日本建築学会 賞、1995年プリツカー賞、2002年AIAゴールドメダル、2010年文化 勲章など受賞多数。
 

[フランチェスコ・ダルコ]

建築史家、『CASABELLA』編集長。1945年フェッラーラ(イタリア)生 まれ。1970年ヴェネツィア大学建築学部卒業。イェール大学客員教 授、スイス・イタリア大学客員教授を経て、ヴェネツィア大学建築学部 教授。1996年より、『CASABELLA』編集長。

[講演会概要]

『CASABELLA JAPAN』創刊10周年・特別記念講演会
「私の選んだ道」
登壇者:グレン・マーカット、安藤忠雄、フランチェスコ・ダルコ
期日:2017年5月18日(木) 会場:イタリア文化会館アニェッリホール
主催:アーキテクツ・スタジオ・ジャパン株式会社、イタリア文化会館
後援:イタリア大使館 協力:モンダドーリ出版社
 

[文]小巻哲

編集者。1954年千葉県生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。
1979-2002年 (株)エーディーエー・エディタ・トーキョー、GA編集部所属。2007年よりイタリアの建築誌「CASABELLA」の日本語版「CASABELLA JAPAN」の編集・監修
 

[写真]

撮影:野原誠治